気がついたら、もう年があけておったわい。しかも29日かい!よくこの日記残ってたよなあ。

アリスの物語に出てくる帽子屋のせりふ
・・・・いいかい、あんたが時間となかよくしてさえいれば、時間はたいていはあんたがすきなようにとけいを動かしてくれるよ。たとえばだな、これから勉強をはじめなけれがならない朝の九時になったとするな。そのとき、あんたがほんのひとこと時間に耳うちしさえすれば、またたくまにとけいはくるっとまわってくれるよ。一時半、おひるごはんよ、というわけさ。

ずっと一時半にとめておいて、あとずーっと、なーんにもしなくていいのでしょうかね?ずっと、お昼ご飯、食べてるの?そんなわけないか。
でも、いつかは勉強もしなきゃいけないんだよな。

だんだん週一のペースになってきたな。まっいいか。

著者はドイツの方だそうで。やはり、西欧の方は自己主張の文化なんでしょうなあ。変な日本語だ。
で、ついつい攻撃的になってしまうのでしょうか?
「なんだその顔は、まるで化粧品のビンのなかに漬かってたみたいだな」
面と向かってこんなことをズバっと言われたらたまりませんわね。
もっとも日本人だって、人に嫌味を言う輩はけっこういますが。
攻撃を受けやすい人ってやはりパターンがあるらしいです。パワーの空白状態に置かれている人という表現をしていますが、必要以上にまわりに合わせようとしたり、自分の権利をなるべく主張しないようにしている人。言葉遣いにおいてもすぐ何度も謝る傾向にある。さらに、自分自身を低く見て卑下する傾向にある人。こういう人はいい獲物なんですな。
だからまずこういう人は自分に自信を取り戻すことが大切なんですな。人間としての誇りまで失ってはいけないのです。
その上で、いろんな受け答えの仕方が書いてあるわけです。
まあ、私も人になかなか言い返せない、言葉につまってしまうほうですが、ひとことでやり返すという方法もありまして、「それがなにか?」とか、「ほう」あるいは「ふん」それだけでいいそうです。後は相手にしない。これは本を読まなくてもやってたな。

週刊こどもニュースの図解版スペシャルだって。
NHKの番組だよね。今でもやってるのかしら?
毎日のニュースから、子供が疑問に思うことを100項目載せてある。大人だって知らないこといっぱいあるなあ。
Q:パレスチナって、どうしていつももめてるの?
これって、けっこうユダヤのなが〜い歴史があるんだよね。こうした民族間の問題に決着がつかないと、ほんとの平和はやってこないのかもしれないな。
Q:「サリン」って、いったいどんな毒ガスなの?
ほんと恐ろしいことがおきたものです。今でも後遺症で苦しんでいる人が大勢います。
ドイツの科学者が殺虫剤の研究中に、たまたまできてしまった毒ガスのひとつだって。知らなかったなあ。ヒトラーでさえも使うのをためらったと言われている。
Q:どうして人間はハゲてしまうんだ?
なんてのもあった。
まあついついふむふむと読みふけってしまう。
あっ、おもしろいのがあった。
Q:刑事のことをなぜ「デカ」というのか?
刑事は、罪を犯した人をつかまえる活動をするところから、ふだんは制服ではなくふつうの服を着ていてよいことになっている。明治時代のころの刑事は、「角そで」という和服を着て、威張っていた。だから、一般市民は、かげで「クソデカ」と読み替えていた。それがさらに縮まって、「デカ」というようになった。うそのようだが、本当のはなしだそうだ。
これ、去年の7月号だったわ。
20代のころは、この雑誌、毎月のように買っていたなあ。槍、穂高なんていう題名につられて買ったんだな。槍は登ったことがあるから、よけいなつかしい。あのころは若かった・・・
そうそう。涸沢に行きたいといってこれ買ったんだ。思い出した。今頃は紅葉できれいだと思う。じゃあ、涸沢行くまでこれは捨てられないかな?涸沢いったら穂高にも登りたくなるかな。いずれにしろ、旦那引き連れて、子供は置いて行きたいですなあ。また来年か・・・・

アンデルセン童話

2002年10月11日
これは子供に買ってきた本だ。もうこんな童話は読まなくなってしまった。今はもっぱら、「りぼん」にはまっている娘。

アンデルセンは、15歳のとき、コペンハーゲンへ、舞台俳優になるために出てきたそうです。故郷の町、オーデンセにコペンハーゲン王立劇場の一座がやってきて、その舞台を見て、役者になろうと決心したのだそうです。
アンデルセンは一生懸命声楽や演技のけいこにはげみましたが、舞台にはふさわしくないと不合格になってしまします。その哀しみが、「みにくいアヒルの子」のすがたに投影されているといいます。
「人魚姫」には、アンデルセンの失恋の苦しみや思いがこめられているそうです。
そういった、挫折や苦悩があたからこそ、愛情あふれる物語がうまれたのかもしれません。
今になって読んでみるとまた違った味わいがあります。
いつ買ったんだろうこの本。ああ、だめだこんな本をとって置く様じゃあ、早く捨てなきゃ。

使わないもの、いらないもの、捨てられないもの、たしかにたくさんありますね。
”とりあえず”とか、”いつか”とか思っているうちにどんどんとたまっていく。使えるものはどんどん使おう。いらないもの、必要ないものは誰かに譲るか、思い切って捨てるか、そうしていかないと、家の中の環境がどんどん悪化してくる、つまりはそういうことなのだ。
レシートなんかもはやく捨てりゃあいいのになぜかとっておいたりするんだなあ。いかんいかん。
まあ、簡単に言えば、短い法話を100話集めた本といったところでしょうか。

法話といえば、今年、父の新盆の時、檀家合同で法要していただいたのですが、その時のお話のなかに、野口雨情の「しゃぼんだま」の話がありました。
野口雨情が童謡のキャンペーンで四国をまわっているときであったといいます。生まれ故郷より、雨情の2歳になったばかりの娘さんが亡くなったとの知らせが届きました。その時につくったのが、あの、「しゃぼんだま」の歌なのだそうです。そう思って2番を見ると、
「しゃぼんだま 消えた
 とばずに 消えた
 うまれてすぐに
 とばずに 消えた
 かぜかぜふくな
 しゃぼんだま とばそ」
なるほど、そういう意味だったのか。
雨情の気持ちが痛いほど伝わってきたことです。
この歌の背景をはじめてしったことでした。
昨日、図書館へ行った時に見つけた。
なんてながったらしい題名なんだ。
なんのことはない。土佐日記の講釈本ではないか。
紀貫之が姫様に和歌を教えているという設定になっている。
土佐日記なんて高校の古文の時以来ではないか。
どんな内容だったかすっかり忘れてしまったわい。
ふむふむ。姫と紀貫之の会話形式になっていて、たいへん読みやすいではないか。こういう読み物がたくさんあると、古文も楽しくなるだろうに。
第二作目は、伊勢物語の予定だとか。ふむ。楽しみである。
事象
買い物をして、買ったものをわすれてしまった。

経過
デパートで買い物をした。3階であれとあれを買った。
1階で食料品を買おうと思い、カートの後ろに袋をさげるところがあり、3階で買ったものをさげていた。
買い物が終わり、カートを返し、デパートを出て、家に戻ってから、気が付いた。あっ、しまった!あそこにかけたまま来てしまった!引き返して、カート置き場を見たがすでになく、サービスカウンターの人に、聞いてみたら、これですねと、手渡された。ああ、これです。よかった。ありがとう・・・

原因
ひとえに、自分の注意力不足。いろいろ考え事もしてたし。あー、いかんいかん。

対処
帰るときにもう一度、何を買ったか思い出してちゃんとあるかどうかたしかめなくてはね。
あるいは、袋はさげてあるかないで、リュックの中にいれてしまえばいいではないか。買い物の時はリュックで行こう。

総括
まったく、ぼけっとしてるとろくなことはないなー

知識化
忘れ物は時間のロス。気をつけよう。

これはまったく自分的な失敗例です。著書にはもっと高尚な例が載ってます。そりゃあそうだよ。設計の指導者が書いたんだから。
事象
三九郎の時、消防署の方へのお礼の仕方について、町会との取り決めがあったことが、正しく伝わっていなかった。

経過
三九郎が燃え終わり、消防署の方がお帰りになるとき、町会から一升のお酒を、PTAからは、ワンカップのお酒を差し上げることになっていた。が、お礼を差し上げるのに、ワンカップでは失礼ではないかと、町内の人に言われ、それもそうだと思い、その方から一升のお酒をお借りして、消防署の方に差し上げました。しかし、それを見ていた町会長さんが、どうしてそういうことをしたのかとご指摘がありまして、事情を説明いたしましたら、それは趣旨が違っていたことがわかりました。つまり、お礼のお酒は、町会とPTAで一緒に差し上げるという意味で、一升のお酒は、消防署に持っていき、その方が飲めるわけではない。ので、その方に飲んでいただくようにと、PTAでワンカップを用意するのだ。ということでした。

原因
引継ぎ書にそのことに関して明確に記していなかったので、どうしてPTAはワンカップでいいのか?疑問に思いながらも、例年そうなのだからと、あやふやなままであった。ちゃんと確認していれば、指摘していただいた方にきちんと説明ができたはずだ。
町会とPTAと一緒に差し上げるところを、別々に差し上げるようなことをしていたのかもしれない。傍から見ればそう見えたので、指摘されたのだ。

対処
長年繰り返し行われてきているなかで、どうしてそうなっているのかということが、だんだんと曖昧になってきてしまっていた。きちんと、こういうときはこういうわけでこうするということを、次の人に伝えていかなければならない。引継ぎ書にきちんと明記する。
お礼を渡す時は、町会長さんに一声かけて、一緒に渡すようにする。

総括
おそらく、私の前の人もなぜワンカップだけでよいのかまでわかっていた人はいなかったのではないだろうか?予算の関係くらいにしか思ってなかったかも。たしかにそうなのだけれども、形式だけは継承されてきたが、町会とのとりきめがあったという大事なことが伝わっていなかった。こういうことはだんだんと曖昧になりやすいのかもしれない。今回のことではっきりとわかったことは、次へもきっちりと伝えていかなくてはならない。

知識化
町会との大切なとりきめがある場合は、引継ぎ書にきちんと明記しなくてはならない。

本を見ながら、自分の失敗情報を作ってみた。知っていなければいけないはずのことが全然わかっていないと、ちぐはぐなことをやってしまうといういい例だと思う。毎年行われていることでも、地区の代表者は毎年違うし、皆やるのは、はじめてなのだから、肝心なことは、その都度伝えていかなければならない。ということを学んだ。
著者は、東京大学大学院光学系研究科教授なのだそうだ。著者は、大学で設計について指導しているという。彼の言葉によれば、「創造的な設計をするためには、多くの失敗が必要」なのだそうだ。人が新しいものを作り出すとき、最初は失敗から始まるのは当然のことで、人は失敗から学び、さらに考えを深めていく。まさに、人類の歴史はその繰り返しであったのではないだろうか。しかし、失敗などしたくないというのが本音ではないのか?
我々はいつでも、失敗しないようにと気を配っているのではないか?失敗していいことはなにもない。だが、失敗するからこそ、自ら考えるのだ。どうすればいいのかと。どうすればもっとよくなるのかと。「人間は考える葦である」そこから創造がはじまる。
「創造力を身に付ける上でまず第一に必要なのは、自分で課題を設定する能力」である。
自分で課題を設定する。課題は与えられるものではなく、自分で設定するものなのだ。そういう力が今の時代に求められているものなのだそうだ。失敗なくして進歩はない。こんな格言があるかどうかは知らぬが、まさに、失敗から何を学ぶことができるのか。どんなポジティブな意味があるのか。そんなことが書かれている。

まったく、何から手をつけていいのか?いる本なのかいらない本なのか?まずそこからはじめなくては・・・・などと思いながら、本をパラパラとめくっては、気が付くとその本を真剣に読んでいたりする。ああ、もうこんな時間。他にもやることがあった。と、次の仕事に移っていく。だから、いつまでたっても本の整理なんてできないのだ。しかし、やらなければ・・・もう本棚に入りきらなくて床に積んである本もかなりある。今に部屋が書籍でうずもれてしまう・・・・

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索